本を読めば2ドルもらえる? 奇抜なお金稼ぎの方法より
例えば、刑務所の独房を1晩82ドルで格上げ、インドの代理母は6250ドル、製薬会社で人間モルモットになると7500ドル。
あらゆるものがお金で取引される行き過ぎた市場主義になっています。
YESかNOか、はっきりと言いにくいテーマについて、受講者に考えるきっかけを与えるハーバード大学でのサンデル氏の講義。
「お金の論理」が私たちの生活にまで及んできた具体的なケースを通じて、お金では買えない道徳的・市民的「善」を問う。
ベストセラー『これからの「正義」の話をしよう』に続く話題の書。
目次
「それをお金で買いますか」を読み解いていきます。
豊富な実例をあげながら、市場主義を導入すべきでない、売りに出されるべきでない。
売りに出されると市場主義が道徳を締め出す結果となるモノや場・サービスが存在し、それらに市場主義が導入されるべきではないものは何かについて考えている。
明日のビジネスのヒントに活用すべく、一例を見てみましょう。
■絶滅の危機に瀕したクロサイを撃つ権利(15万ドル)

南アフリカでは、一定数のサイを殺す権利をハンターに販売することが、牧場主に認められるようになっています。
これは、絶滅危惧種であるサイを育てて守るインセンティブを牧場主に与えるため。
■主治医の携帯電話の番号(年に1500ドルから)

1500~2500ドルの年会費を払う患者に対し、携帯電話の番号を教えて当日予約をとれるようにする
「コンシェルジュ」ドクターがますます増えています。
■子供を名門大学に入学させる

これはニュースになりましたよね。
価格は詳しく明示されていませんが、一流大学の当局者が『ウォールストリート・ジャーナル』紙に語ったところによると、きわめて優秀とまでは言えない生徒でも、親が金持ちで相当な寄付をしてくれそうなら、入学を許可する場合があるといいます。
こういったものは、誰もが簡単に買えることはできません。ある程度、裕福である必要があります。
しかし、お金を稼ぐ術も多岐に渡っています。
奇抜な方法でお金を稼ぐことができます。
■額(もしくは体の一部)を広告用に貸し出す(777ドル)

ある航空会社では、30人の人を雇って、頭髪を剃らせ、消える入れ墨で「変化が必要? それならニュージーランドへ行こう」とスローガンを入れさせました。
■民間軍事会社の一員としてソマリアやアフガニスタンで戦う(1月に250~1000ドル)

能力、経験、国籍に応じて、報酬には多寡があります。
■ダラスの成績不振校の二年生なら本を一冊読めばいい(2ドル)

読書を奨励するために、ダラスの成績不振校では、子供たちが本を読むたびにお金を払っている。
■病人や高齢者の生命保険を買って、彼らが生きている間は年間保険料を払い、死んだときに死亡給付金を受け取る(保険内容によるが数百ドル)

赤の他人の命を対象とした賭博は、300億ドル産業になっています。
赤の他人の死が早ければ早いほど、投資家の儲けは多くなります。
道徳的にこれでいいの??

現在では市場主義が圧倒的な勝利を収め、多くのものがお金で買えるようになっています。
しかし道徳的に市場でやりとりすることに多くの人が違和感を持つような分野もある。
そこでどこまで市場域、金銭で大体できる分野を拡大できるか、そしてどこからそのモノの中心が道徳的なものであり、金銭での代替に歯止めをかけるべきものなのかを改めて考える。
「すべてが売り物となる社会では、貧しい人たちのほうが生きていくのが大変だ。お金で買えるものが増えれば増えるほど、裕福であることが重要になる」
最近の売買の理論は、物的財貨だけではなく、生活全体を支配するようになっています。
このような生き方で本当に良いのか。
すべてのモノが商品化された結果

政治的影響力、すぐれた医療、犯罪多発地域ではなく安全な地域に住む機会、問題だらけの学校ではなく一流校への入学などがお金で買えるようになるにつれ、収入や富の分配の問題はいやがうえにも大きくなる。
「価値あるものがすべて売買の対象になるとすれば、お金を持っていることが世界におけるあらゆる違いを生みだすことになるのだ」
また、ここ数年、貧困家庭や中流家庭の生活が厳しかった理由がここにあるといいます。
貧富の差が拡大したのではなく、すべてのものが商品化されたことで、お金の重要性が増し、不平等が明確になっただけなのです。
このまま私たちはすべてを商品化し続けていて良いのでしょうか?
目の前の利益に飛び込んだ後のしっぺ返しを想像できる力が、必要とされているのではないでしょうか?
すべてが売り物となる社会に心配する理由

すべてのものが売り物になっていくほど、裕福であること、あるいは裕福でないことが重要になり、金がないこと・不平等の痛みが増す。
また、腐敗とはなにかというと、公共心・道徳心の腐敗のことで、一定の分野では市場主義を採用して、そのものの価値を定めて報酬にすると、それをすることで名誉、義務感、利他心、公共心という理由が損なわれるため、かえって効率が下がる。
命名権と広告が格差を生んだ

野球である記録を達成したときボールなどが市場で売買される商品とみなされると、そうしたボールを選手に返すことが、
『良識ある何気ない振る舞いではなくなる。寛容な英雄的行為か、浪費家の愚行かのどちらかになってしまうのだ。』
最後の4割打者ピート・ローズ、自身のサインをサイトで販売しており、299ドル+手数料・送料で「野球賭博をしてすいません」と書かれたサインボールを、500ドル+手数料・送料で球界からの永久追放を通告する文章のコピーにサインしたものを送ってくれるというのは、笑ってしまう。
野球が市場主義にどっぷりつかったことで、企業の命名権を与えることで多くのものを金に替えている。
球場の名前などは日本でも行われているが、他にもダイヤモンド・バックスは球場の命名権(「バンクワン」・ボールパークへ)と共にホームランに「バンクワン」・プラスト(プラスト=ホームラン)とアナウンサーは味方のホームランにそうして企業名をつけることが義務付けられる契約をした。
他にもニューヨーク・ライフと言う生命保険会社はメジャー10球団と、実況アナウンサーはホームベースの滑り込みの際に実況アナウンサーは「セーフです。安全と安心。ニューヨーク・ライフ」といわなければならないという契約を結んだ。
そうやったことで多くの収入を得られるようになったが、スタジアムが立場を問わず誰もが地元愛と市民の誇りを共有する象徴的施設の性格を失い、公共性が失われていった。
そうしたものの破壊の最たるものが、豪華なスカイボックスの増加にある。
その席は、ガラスで特権階級と庶民との間で文字通り空間が隔てられれた。
どこにでも広告を入れる、何も悪くないという人もいる。
しかしそうした自由放任論には、強制と不公正に関する異論、腐敗と堕落に関する異論の二つの異論を招く。
前者はローンが払えなくなり自宅にけばけばしい広告を描く、子供の薬のため額に広告の刺青を入れるというのは完全な自由意志でないというもので。
命名権・広告で堕落は二つのレベルで進む。
例えば額に広告の刺青を入れるというのは、完全な自由意志で行われても、自らを貶める行為である。
また実際にあった例だが養育費のために子供の命名権を売ろうとした両親は、たとえ子供はそもそも自分で名前を選べないものだといっても、広告のついた例えばペプシ・ピーターソン、ウォルマート・ウィルソンで生きていくのは、たとえ本人が同意したとしても人格を貶めることである。
インセンティブ格差を生んだ

賄賂、受け手と贈り手双方に利益が出る自発的なものである。
市場の倫理からいうと非難されるべきものではない。
しかし非難されるのはそれが腐敗しているからである。
腐敗とは売りに出されるべきではない何か・・・。
有利な判決(裁判官への賄賂での)や政治的影響力(政治家への賄賂)を売買することで生じる。
薬物中毒者やHIV患者の女性に、お金と引き換えに不妊手術を行わせているハリスの活動が強制あるいは贈収賄と非難される。
強制とは金に困っているから仕方なくしているから事実上の強制と言う意味である。
贈収賄とは、そうした生殖能力という売りに出されるべきではないものを売買しているからである。
しかしそれは裁判官や政治家と違い、自分のものを売っているのだから不妊手術を選んでも悪いところはないというむきもあるが、外部の目的(薬物中毒の赤ん坊が増えない)のためにしているので贈収賄。
罰金を設定することで、それが料金のようなものとして扱われ、公共善・道徳心を損なう結果となる。
例えばあるイスラエルの保育所では、親がときどき子供を迎えるのが遅れるという問題を解消するために、遅れてきたら罰金をとることにしたら、それを料金のようにみなして迎えに来ることが遅くなるケースが増えた
(道徳や名誉の問題が単なる料金の問題に堕落した)。
また、カーボンオフセットでもそういうことがいえる。
カーボンオフセットは普通の人が飛行機旅行、あるいは自動車の使用での大気汚染による損害を、一定額寄付することで他国での植林やクリーンエネルギー計画を支えるための費用に充てるもの。
そうしたことは重要だけど、そうした寄付をすることで、義務を果たした(罪を相殺した)気になって、普段の生活・生活様式での改善をしないことにつながるおそれがある。
そのためカーボンオフセットの批判者は、それを中世の罪びとが買った「免罪符」にたとえる。
イヌイットが自分たちに狩猟することが許されているセイウチを撃つ権利をハンターに販売しているが、それは結果的に殺されるセイウチの数は変わらなくとも、取引の当事者双方に金銭的利益をもたらすものでも、彼らのコミュニティに特別に認められた例外の意味と目的が腐敗する。
『金銭的インセンティブに頼るかどうかを決めるには、そのインセンティブが、守に値する姿勢や規制を蝕むかどうかを問う必要がある。この問いに答えるには、市場の論理は道徳の論理にならざるを得ない。要するに、経済学者は「道徳を売買」しなければならないのである。』
善意は無償の方が多く集まる

例えば献血では、血に値段をつけると、公共心のためならばそうしたことをする人もしなくなる(価格をつけたことで自発的な献血者を追い払った)。
また寄付を集める活動では無償でなく、貰ってきた寄付の何%かにあたる額を報酬として別途(寄付でなく別の財源から)を与えるとすると、無償で活動したグループよりも報酬インセンティブを提示されたグループが集めた寄付の額は少なかった。
つまり無償のほうがより熱心に寄付を集める活動に励んだ。
『したがって、お金で買うことが許されるものと許されないものを決めるには、社会・市民生活のさまざまな領域で律すべき価値は何かを決めなければならない。この問題をいかに考え抜くかが、本書のテーマである。』
市場主義が広範囲に浸透した現在でも、人間や投票権を売ることが許されない。
なぜならそれは人間個々を金額で換算すべきでないという道徳心、あるいは公的な権利義務であるから。
それらのように商品になることでそのものの非金銭的な価値を毀損、あるいは腐敗・堕落する性質のものがある。
しかしそうして大切にすべき価値を考えなかった主張しなかった結果、そうした分野にまで市場主義が入り込み、高級な道徳・公共心を追い出し、わかりやすく便利だが低級な市場主義で扱う範囲を広げている。
ファストパス制度がねじ曲がっている

余計にお金を支出することで行列にわりこむ。
遊園地の特別な優待パスのように制度としてあるものから、並び屋のようにホームレスなど貧しい人に金を払い代わりに並ばせてチケットを取らせたり、ダフ屋のようにチケットを転売するものなどがその例としてあげられる。
市場は行列に優先するという主張には、個人の自由の尊重と福祉・社会的効用の最大化という2タイプの論拠がある。
前者はリバタリアン的な考え方で、売春や自身の臓器の売買を規制することに反対するのと同様に、その主張ではそれを規制することは同意した成人の選択を妨害するとしている。
そして後者は功利主義的なもので、市場取引は売り手と買い手双方に同じような利益をもたらし、集団的福利・社会的効用を向上させるという主張である。そうすれば、その財を最も高く評価する人にそれを割り当てられるというものである。
一方で先着順という行列の倫理を擁護する意見として、ダフ屋が彼らに払う高い金を持たない、ある劇・コンサートを見たいと強く願う人がそれを見るのを邪魔しているというものがある。
それに対してダフ屋の擁護者は、最も高い価格を払う人が最もそれを高く評価していると主張したり、自由時間のある者をえこひいきすると不平をいうかもしれないが、高い金を払ってもその劇・コンサートに対する情熱を持っているとはいえない
(著者はここで、野球で高額な席に坐る人ほど球場に遅く着て早く買えることが多いという例をあげている)。
行列と市場、どちらがより正しく財を最も高く評価するものにチケットを配分するかは、偶然に大きく依存している。
ローマ法皇のミサ、国立の自然公園のキャンプ場の予約権など、単なる利用の対象でも社会的効用の源でもない、
自然のあるいは宗教の神聖な場に接する権利をダフ屋がオークションにかけるのは一種の冒涜であり、誤った方法での評価と多くの人が感じるだろう。
市場の倫理や行列の倫理だけでなく、能力(大学の入試)、くじなどの運(陪審員)で物事を割りふるべき善もある。
最後にいかにして市場は道徳を締め出すか

ノーベル賞や野球のMVPは名誉をあらわす善なので、お金に買うならば価値は消えてしまうお金で買えないものがある。
一方で腎臓や子供など、お金で買えるがそうすべきでないものがある。
前者の善はお金で買うと消えるが、後者の善(腎臓はお金を使って買っても機能しなくなるわけではない)はお金を使っても消えないが堕落する。
核廃棄物処理場を作ることを受け入れると回答が51%、それに加えて毎年補償金を支払うことを申し出たときに、受け入れると回答したのが25%だった。
市民的な公共心で受け入れると考えていた人も、補償金の話が出ると賄賂のように感じられてむしろ反対に動く。
市場的インセンティブと道徳的インセンティブは累積しない。前者は後者を締め出す。
あるいは貧しい人のために割引料金で法律相談に乗ってくれと弁護士団体にいったら断られたが、無料相談をしてくれと言うと受け入れてくれたというも、そうした例としてあげられる。
利他心、寛容、連帯、市民精神を使えば使うほど磨り減るから使い時を考え節約すべきという信念を持つ経済学者も多い。
しかし実際のところは逆で、それらの美徳ははむしろ鍛えなければ衰弱する代物である。

放送作家・演出家・地域戦略アドバイザー
1977年生まれ 熊本県天草市出身
株式会社ドーンマジック 代表取締役