日本人が最も好きなブランド、ルイ・ヴィトン。
49,1%がルイ・ヴィトンのバッグを持っていると言います。

幼少時ですでにピンチの連続??

1821年.創業者であるルイ・ヴィトンはスイスとの国境に近いジュラ地方アンシェイ村で12兄弟の真ん中の子供として誕生。

しかし!!

14才のときに育ての母親との仲が悪くなり、ルイは家出をしてしまうのです。
早々と訪れたピンチ。

当時の、今でいうデザイナーというのは非常に身分が低く、美しい装飾品を製作して貴族や王族に献上するという立場でした。
パリへと向かう旅路の2年間で、ルイは旅行カバンを見ながら多くのアイデアを想い抱くのです。

苦節17年 ピンチを乗り越え独立

パリ到着後、トランク製造と荷造り用トランクの職人マレシャル氏に弟子入りしたルイ。
1854年、彼が33歳の時。世界で初めてトランクを専門に扱う旅行カバン専門アトリエをオープンさせます。

これが現在の「ルイ・ヴィトン」の発祥。
しかし、独立したところで、ヒット作はなく生活がピンチになるのです。

そんなルイ・ヴィトンがブレイクするきっかけとなったのが、蓋(トランクの側面)が平らなトランクを発案したこと。

それまで馬車だけだった移動手段から、船や機関車などでの移動が増えると考えたルイ。
当時の主流だった蓋の丸いトランクから、機関車や船の船内などで積み上げられるような平らなトランクを発案し、それが大ヒット。

さらに当時の一般的なトランクに比べてルイ・ヴィトンのトランクは軽くて丈夫。
おまけにトレーや仕切りまでトランク内に設置し、使いやすさをとことん追求したものだったため、たちまちセレブたちの間で大流行していきました。

ルイ・ヴィトンのトランクで豪華客船に乗って世界の海を行き来することが、金持ちにとってのステイタスとなったのです。

バッタもん大量流出でまたまたピンチに

海外では今も堂々と売られているコピー商品

ルイが作り上げたアトリエが安定の人気になると、息子であるジョルジュ・ヴィトンが継承。
1872年。赤とベージュのストライプ模様を冠したトアル・レイを販売。
トランクの上から布地を貼るという技法は画期的なものでした。

またジョルジュには優れた商才があり、自身のブランドのトランクを大量に持ち渡米し、自ら売って回ったり、コンペに出品したりするなど、海外に向けて積極的にアピールしていきます。

よし、これですべてばっちり!!
と思った矢先…
模倣品が作られてしまいます。

布を張るといった小手先だけではだめだ。
そこで新しい商品デザインを生み出すのですが、それが日本の市松模様からインスパイアされたと言われている「ダミエシリーズ」

1878年の万国博覧会をきっかけに、マネやモネ、ゴッホなどの芸術家も虜となったと言われる日本文化に影響された商品。

日本庭園や工芸品、そして浮世絵など日本の美しく繊細な文化を目の当たりにしたヨーロッパの人々はたちまち日本文化の虜になってしまい、「ジャポニズム」という言葉が使われるようになります。

またまたパクられたダミエ

ところがジョルジュが発案してブームとなった「ダミエ」も、やっぱりすぐに模倣されてしまうのです。
「ダミエ」のデザインは当時にしてみたらとても斬新だったのですが、とってもシンプル。シンプルがゆえに容易に模倣されてしまうことになったのです。

布でダメ、柄でもアカン。どうしよう…。

そんな時、ジョルジュは閃きます。

生産効率というよりも、斬新なデザインでより工夫されたトランクが必要だと。
そして考え出されたのが、あの有名な「モノグラム」。

複雑なラインを職人がひとつひとつ描き上げることで、同じものを2つと作りあげる事は難しかったために模倣品が激減。
模倣品を減らそうという目的を達成しただけではなくて「モノグラム」はパリで瞬く間に人気を博し、ダミエを超えるベストセラーとなっていきます。

この自社ロゴを製品に印刷するというやり方は、ヴィトンが初めて用いた手法とされ、以後ディオールやグッチが、同じようにモノグラム柄の製品を発売するくらいの影響力を持ちました。

そして、ジョルジュはトランク専門店の枠から一気にバッグ部門にも事業を広げ、そこでも成功を収めます。
ジョルジュが手掛けたデザイン数は、1936年に死去するまでに700にものぼったといわれています。

しかし、戦争で再びピンチが訪れる

1940年にナチスがフランスに攻め込んだ時のこと。
ヴィシー政権の時代で、ほとんどのファッションブランドが弾圧されて店を閉めざるをえなくなった。

しかし、ルイ・ヴィトンは占領と戦争時代を生き延びた。

なぜか??

ルイ・ヴィトンは、公然と、恥じることなくナチスに協力することで、こうした許可を獲得していたと言われています。

実際、1940年代はじめにフランスでナチスが統治し運営するホテル・デュ・パルクの1階で、唯一営業を許されたブランドでした。
ライバルたちが、取引を拒否して姿をくらまし、廃業に追い込まれる中、ヴィトンだけが事業が成り立っていた。
そして戦後、市場は彼らの独壇場となったのです。

そして時は流れ、1954年創業100周年を迎えたルイ・ヴィトンは、パリ・マルソー大通り78番地に新店舗をオープンさせます。
1959年にはルイ・ヴィトン3代目であるガストン・ヴィトンがエジプト綿に塩化ビニルの樹脂加工をほどこした弾力性のあるトアル地の現在のモノグラム・キャンバスを発表。

この生地によってソフトバッグの製造が可能となったために、オードリー・ヘプバーンが愛用していた人気のバッグ「スピーディ」や「キーポル」などが誕生しました。

ルイ・ヴィトンの初海外進出に日本を選んだワケ

新宿店

実は戦前にルイ・ヴィトンは、ロンドンとアメリカに店舗を持ったことがあったのですが、戦後になるとルイ・ヴィトンの直営店舗はフランスのパリとニースの2店舗だけとなってしまいました。

そんなフランスの自国で大成功をおさめて大人気となったルイ・ヴィトンが、海外再進出に乗り出した先は・・・・日本。

日本では、海外旅行が自由化されてから約10年くらい経った1970年代前半。
やっと航空券の値段も下がり始め、空前の海外旅行ブームが巻き起こります。

また、それと重なるように日本人のデザイナーであるイッセイ・ミヤケ、ケンゾーなどがパリで活躍をし始めていた時代でした。

彼らのパリでの活躍を取り上げて作られたファッション誌などの影響もあり、日本ではひと握りのセレブの人々しか知らなかったルイ・ヴィトンというラグジュアリーブランドを多くの日本人が知ることになります。

そして、当時は日本の3分の1以下位の値段で買うことができた海外のルイ・ヴィトンの店舗には、観光客だけではなく並行輸入業者という輸入代行をしている人々までもが列をなして買い漁っていた事も、「ルイヴィトン・ジャパン」の設立の理由になったのです。

「ルイヴィトン・ジャパン」の設立によって、日本国内でフランスでの値段に近い金額で購入することが出来るようになり、ルイヴィトンの一流のサービスとこだわりを得られるようになりました。
1978年に東京・大阪に6店舗出店し、たちまち日本のファッション界の話題を独占。
オシャレな人々を魅了して大流行となりました。

コピー摘発のために弁護士を20人抱える企業

ルイ・ヴィトンは偽造に関して真剣に取り組んでおり、2012年にはコピー商品を使った映画会社を訴えたこともあります。

二日酔いになっるダメ男たちのメディー『ハングオーバー』では、変わり者のドラ息子がタイに行くときに持っていたのがルイ・ヴィトンのコピー商品。
テディ(メイソン・リー)がダメ息子アランのバッグに触ろうとすると「気をつけろ。これは“ルイス・ヴトン”だからな」と怒るアランのシーン。
コミカルなのですが、ルイ・ヴィトンにとっては25秒にわたりコピー商品が登場したことはブランドを侵害するという許しがたいものでした。

ところが、判決はルイ・ヴィトンの敗訴に終わります。

理由は「多くの観客はこのバッグがコピーということにさえ気がつかない」と判断されたからだそうです。

ルイ・ヴィトンは自社に40人の弁護士、外部に250人の私立捜査官を雇っているそう。2004年には、ルイ・ヴィトンはグローバルで1日20件の摘発をし、1000人のコピー製造業者関係者を刑務所に送りました。このようにルイ・ヴィトンの歴史には偽造との戦いが深く刻まれています。