高田馬場といえば、かつては学生の街として有名でしたが、いまミャンマー各地の民族料理を出す店は20軒以上あります。
またミャンマー人向けの食材店、カラオケ、美容院、マッサージ店があり、リトル・ヤンゴンと呼ばれています。
夏場になると、頬を白く染めたミャンマー女性を街で見かけることもあります。
これは「タナカ」というミャンマーの日常的なお化粧。
タナカという名の樹木を粉末やペースト状にしたもので、これを頰や額に塗るのです。
元々、日焼け止めと暑さ対策だったもので、今はそれにオシャレも加わってて夏の定番となりました。
目次
反政府運動で難民が来日

長年、軍事政権の独裁が続いてきたミャンマーで、大規模な民主化要求デモが起こったのが1988年。
多くのミャンマー人が国を離れて難民となり、一部の人は日本にやってきたのです。
行き場がないミャンマー人が頼ったのは、ミャンマー人の僧侶がいるお寺があった西武新宿線・中井駅の周辺だったのです。
そして、その後ミャンマーの民主化が進むと同人日本の留学ビザも緩和。
ミャンマーからも国費留学生をどんどん受け入れるようになりました。
さらに高田馬場に日本語学校が開校され、周辺にミャンマー人街が出来上がったのでした。
「孤独のグルメ」の影響で日本人が増加

テレビドラマ『孤独のグルメ』(テレビ東京系列)にミャンマーのお店が登場。
松重豊さん演じる井之頭五郎がラペットゥやシャン風の豚肉と高菜漬け炒め、牛スープの麺などを食べる姿はと興味を持った視聴者が、次々と足を運ぶようになったのです。
今や、レストランだけでなく、食材店も多く。
「ノング・インレー」が入居するビル「タック・イレブン」の上階には、いくつかのミャンマー雑貨屋が並び、完全にアジアンワールドになっています。
ラペットゥ、乾燥させた高菜、噛みタバコ、ナマズのふりかけ、ミャンマーのお菓子、カップ麺、調味料、ハーブ類、コメ……などミャンマーの市場と変わらないラインナップ。
アジア好きの日本人や、アジア系のレストランで働く人が食材を探しに来ることもあるという。
ミャンマー人は今後も増加傾向

これまで、ミャンマーからの留学といえば、欧米やシンガポールが多かったのですが、それが日系企業の進出ラッシュによって変わってきています。
また、アニメや漫画など日本文化も人気。
これからも留学生は多くなることが予想されます。
西葛西にインド人が集中したワケ

東京都江戸川区の西葛西駅の周辺には、在日インド人が集中して住んでいます。
その様子は「リトル・インディア」と呼ばれるていますが、なぜ西葛西だったのでしょう。
紅茶の輸入が解禁

西葛西に最初に移り住んだのは、ジャグモハン・チャンドラニ氏。
いまは「リトルインディアの父」と呼ばれており、来日したのは1978年でした。
そのチャンドラニ氏が来日した目的は、日本でのインド紅茶の普及でした。
当時から日本でも紅茶は飲まれていたが、イギリスの大手のものばかりだった。
インドは元々イギリスの植民地。
その時代、インドの山岳部に茶を生産。
生産された茶葉はイギリスに持ち去られ、インド人が味わうことはなかったといいます。
しかし独立後、茶は新生インドの主力商品として経済を支える存在へと成長。
ダージリン、アッサム、ニルギリといった品種が世界的に注目されるようになりました。
ところが、当時、国内産業の保護を目的として、1971年まで日本は紅茶の輸入を制限していたのです。
レストランプロデュース事業

チャンドラニ氏は、ホテルに営業をかけると同時に、カフェやレストランそのものをプロデュースするアイデアを思いつくのです。
紅茶に合った食器、テーブルクロス、サーブの仕方まで提案。
豊富な茶葉を使って、どんな紅茶が日本人に好まれるのかアレンジしてアドバイスも実行。
インドの紅茶が認められ、少しずつ紅茶の輸入量は増えていきました。
そこで、必要になるのが倉庫。
都内各地を探しましたが、なかなか場所が見つからない。
当時、ビジネスの中心は、大手町や茅場町、日本橋といったあたりだったため、東西線の沿線だと都合がいいと感じ、西葛西に目を付けたのです。
当時の西葛西といえば、インド人どころか日本人だっていない場所。
わずかな農家ではレンコンや小松菜を栽培しているほか、沿岸部では海苔の養殖をしているのみ。
西葛西リトル・インディアが誕生したのですが、それから20年ほどの間、西葛西は外国人にはほとんど縁のない場所。
1998年くらいまで、西葛西に暮らすインド人は4世帯だけでした。
インド人が集まった理由は「2000年問題」??

2000年といえば世紀の変わり目を目前としたミレニアムの年。
2000年になったその瞬間、世界中のコンピュータが誤作動するのではないかといわれていました。
そのため、日本企業がインドから技術者を呼び寄せていたのです。
当時、IT大国として頭角を現しつつあったインドから、技術者がどんどん派遣されてきたという訳でした。
ところが、インドの技術者は「住むところ」に困ります。
勤め先は官公庁や銀行、大手企業が集中するエリアのため、東西線で通いやすい、西葛西あたりのマンションに臨時の住居を与えられて、暮らしはじめたのです。
インド料理が食べたいからレストランを作ろう

昼間はみな都心で働いていますがでも西葛西に戻ってくると、何もなく、特に、ベジタリアンの人が困ったいう。それならインドからプロを呼んでレストランを作ろう。
と思いたち、西葛西の居抜きで物件を借り上げそこでインドレストランをオープン。
これが、隅田川から東では、日本初のインド料理店となりました。
ここが、いまや日本人にも大人気となっている『スパイスマジック・カルカッタ本店』の前身となった店だったのです。
あとがき

こちらは在留外国人数全体のトレンドです。
ミャンマー、インド、ベトナム人が爆発的に増えているのです。

放送作家・演出家・地域戦略アドバイザー
1977年生まれ 熊本県天草市出身
株式会社ドーンマジック 代表取締役