「NHKをぶっ壊せ」。あそこまで連呼されると、そうだね確かにNHKやっぱりいらないよね。
なんて気にもなってきますよね。

自分のマインドは意外に揺れ動きやすいもので、だったらそのマインドに働きかけ、仕事につなげようと言うのが禅の教えなのです。

世界に名だたるリーダーが学ぶ禅のお話です。

ジョブズに始まり稲盛和夫さんなど世界のリーダーが仕事・人生の指南役として「禅」を学んでいることをご存知でしょう。
「減らす、手放す、忘れる」という「禅の教え」を学び、余計なことに悩まないシンプルな生活を送りたいものです。

どっぷり学ぶ時間はなかなか作れないと思いますので、本日はさわりで重要な部分だけをご紹介いたします。

「色眼鏡」を外すこと

人の悩みや心配事のほとんどは、人間関係にからんだものです。
そして悩みのもとをたどると、ほとんど些細なことがきっかけで、相手を「色眼鏡」で見てしまうことが原因です。

自分の考えを否定されて嫌な気持ちになった、約束を破られてイラッとしたなど、そのときの感情は相手の一面から受けたものでしかないのにも関わらず、「こいつはこういう奴なんだ」とあたかもそれがその人の全てかのように先入観を持ってしまう。

禅では、先入観のみで人を判断することを強く戒めています。
「情報」だけで、あるいは、相手の一面だけを見て抱いた嫌な感情、否定的な思いをもって、全人間性を決めつけてしまったら、その人を見誤ることは必定です。
まず、自分から色眼鏡を外すことです。

「一切衆生、悉く仏性有り」という禅語を胸に刻むことを勧めています。
これはあらゆるものには、「仏性」が備わっているという意味です。
仏性とはやさしさや思いやり、あたたかさや包容力といった「美しい心」のこと。

「自分が接したのは相手のほんの一面に過ぎない。今度は相手の中の”仏性”を見つけよう」と考えられるようになれば、ふとした瞬間に相手が見せる仏性(真の姿)を見逃さないようになり、色眼鏡を外して見つめることができるようになります。

人に対する好ましくない感情やネガティブな評価の背景には、実は色眼鏡をかけた自分がいるのだということを知ってください。
それを外したら、見え方はガラリと変わったものになるでしょう。

毎日一回、必ず「立ち止まる」

「七走一坐(しちそういちざ)」。
これは「七回走ったら、いったん座ってってみよ」という教えです。
禅では「止まることは決して悪いことではない、むしろ、大事なことだ」と教えています。
なぜなら止まることは、自分を見つめ直すこと、それまでの自分を振り返ってみることだからです。

躓いたとき、失敗したときは、その原因を明らかにするためにもいったん立ち止まり、自分を見つけ直してみることが大切です。
原因究明をせずに歩みを進めてしまえば、また同じ誤ちを繰り返してしまうでしょう。

前を走り続けている同僚や友人の背中をみながら、自分の歩を止めるのは不安なことかもしれません。
しかし、禅も中国古典も「大丈夫だ」と請け合っています。
安心して止まって、さまざまなことを「考える時間」をつくってください。

リーダーだって「我が身一つ」

「人は生まれながらにして持っているものは何もない。我が身一つでこの世に生まれてきた」ということを意味する「本来無一物(ほんらいむいちもつ)」。
リーダーだって、本質的には「無一物」です。高い地位や高い収入、多くの部下、輝かしい仕事の成果など、さまざまなものを持っていると思い込んでいるかもしれませんが、それらは衣服のようなもの。

「身ぐるみはがれてなるものか」などと執着するほどのものではありません。
またがんばって、新しい衣服を身につけていけばいいのです。

「自分は本来無一物だ」と思えば、失敗することや、結果が出ないことなど、恐るるに足らずです。
「失うものは何もない」ことほど、人を強くする境涯はありません。

リーダーは自分を信じて「何があっても、裸一貫ではじめりゃいいさ」と覚悟を決める必要があるのです。

どんなに偉くなっても「自ら動く習慣」

「冷暖自知(れいだんじち)」。
器の水が冷たいのか温かいのかを知るには、実際に手を入れてみるしかない。
つまり、何事も行動してみなければわからないという意味です。

最近はIT技術の発展のおかげで、現場のデータがリアルタイムで上がってくるし、たいていの情報はネットで簡単に手に入ります。
その気になれば、リーダーがわざわざ現場に出向かなくてもいいくらいです。

しかしそうした情報は、所詮は”バーチャル情報”。
「わかった気になる」だけで、現場の本当のことはわかりません。
したがって、的確な判断をして、現場に指示を出すこともできません。

リーダーこそ、現場で経験を積み、さまざまなことを「体感」することが重要なのです。
「あれこれ考えるより先に、まず動きなさい」ということです。

「善悪難定」

それは百年経っても「善」なのか?
仏教では、
「物事の善悪というものを、いまこのときに判断するのは難しい。だから、距離を置いた視点から、物事の良し悪しを見ることが大事ですよ」
と考えます。

これを表すのが「善悪難定」という禅語。
リーダーとしてはこれを、「十年、百年経っても、いまやろうとしていることは善といえるだろうか?」と読むことができます。
リーダーは会社や事業の方向性を決め、部下たちを同じ方向に動かしていくのですから、「判断を間違えた」では済まされません。

目先の損得は脇に置き、遠い未来にわたって世の中や人々の役に立つものであるのかどうかを真剣に考え、判断する必要があります。

十年、百年後の社会における会社の存在価値・存在意義を考えたとき、目先の損得にとらわれたためにゼロにしてしまうのと、時を経ても変わらない真理を見つめて善をコツコツ積み上げていくのとでは、大変な違いがあります。

目先の損得に心が奪われそうになったら、「善悪難定」とつぶやくことで、判断を誤ることなく、正しい道を進んでいけるはずです。

「妄想」しないこと

「莫妄想(まくもうぞう)」という禅語があります。
意味は、「妄想することなかれ」ということ。

禅語でいうところの「妄想」は、「ありもしないことをあれこれ想像する」という意味だけではなく、心を縛るもの、心に棲みついて離れないものすべてが含まれます。

「あれが欲しい」という我欲や、「これを手放したくない」という執着、他人がうらやましいという気持ちも、自分はダメだという思いもすべて「妄想」です。
心を整えるには、こうした「妄想」をできるだけ減らしていくことが大切。

そのためには「妄想」の正体を見極めなければなりません。

妄想を生み出しているもっとも根源にあるものは、物事を「対立的」にとらえる考え方だといいます。

  • 「生・死」
  • 「勝・負」
  • 「美・醜」
  • 「貧・富」
  • 「損・得」
  • 「好き・嫌い」

といった分別をして、他人と比較してしまうことが「妄想」を生む原因です。

比べようがないものを比べようとするから、余計なことや無駄なものがまとわりついてしまい、不安や悩み、心配事が増えるのです。
比較することをやめたら、妄想の9割は消えてなくなり、生きるのがラクになります。

「いま」に集中する

「一息に生きる」という禅語があります。
これは文字どおり、「一呼吸するその瞬間、瞬間を一生懸命に、丁寧に生きなさい」という意味です。
過去の出来事を思い出して落ち込んだり、まだ来ない未来を想像して不安を増幅させたりせず、「いま」「ここ」だけに集中する。
そうすることで、余計な不安や悩みを抱えずに済むようになります。

心配事の”先取り”などせず、私たちには「いま」をどう生きるかしかないということを、改めて胸に刻みましょう。

過去にいつまでもこだわっていることは、そのまま、いまの生き方に対する自信のなさを表明していることです。
そこに不安や悩み、心配事が心に入り込む隙が生まれます。

「あるがまま」でいる

世の中には自分ではどうにもならないことがあります。
アドラー心理学で言う「他者の課題」もこれに当たります。
どうにもならないことをどうにかしようとするから、しんどくなったり、苦しくなったりします。

仏教では、私たちはみずからの力によって生きているのではなく、大宇宙の真理とか仏性といった「自分を超えた大いなる存在」によって生かされていると考えます。

つまり自分でどうにもならないことは、そのまま、あるがままに受け取っておけばいいのです。
心を向けるべきは「どうにかなる」ことの方です。

自分ではどうにもならないことを受け入れたら、その状況と「共存」できるようになります。
あるがまま、そのままの自分がいまできることに向き合えるようになる。どうにもならないことに、とらわれることがなくなると、「どうにかなる」ことに前向きの心で取り組めるのです。